前回まで4回に渡り、電子の遷移(状態の移り変わり)と、私たち人間の意識の遷移、特に「悟り」や「空の体験」と呼ばれるものの相似性について見てきました。
⇒①素粒子構造に見る「真の自己」とは
⇒②電子に見る人間の死とは
⇒③電子に見る「空 (くう)」の体験
⇒④「真の自己」を悟る
この相似性をより理解するために、前回ちょっと紹介した一休和尚の「悟りの詩」から、その悟りのメカニズムを見ていきたいと思います。
*下記は、一休和尚の弟子が残した文献からの引用で、文中の「師」が一休和尚になります。
1420年(応永廿七年庚子)師27歳。
『夏の夜、鴉の声を聞いて悟るところがあり、すぐにその見解を華叟和尚に示した。
華叟は「それは羅漢(狭い範囲の悟り)の境涯であって作家の衲子(すぐれたはたらきのある禅者)にあらず」といわれた。
そこで師は「私は羅漢で結構です。作家などにはなりたくない」といった。
華叟は「お前こそ真の作家だ」といい投機の偈(悟りの詩)を作って呈出するようにいった。
「凡とか聖とかの分別心や、怒りや傲慢のおこる以前のところを即今気がついた。そのような羅漢の私を鴉は笑っている。」』
一休和尚は、27歳の時に鴉(カラス)の声を聞いて悟ったと言います。引用にはありませんが、闇夜に琵琶湖岸の船上で坐禅をしていた時の話だそうです。
先ず状況としては、夜明け前の一番暗い闇夜で何も見えず、また船のゆれが心地よいくらいの、何も聞こえない静寂な船上だったと思います。
そんな時、突如、鴉の声が聞こえ、闇夜の静寂は一瞬で切り裂かれます。同様に、坐禅をして静寂だった一休和尚の心も切り裂かれたことでしょう。
しかし、心の静寂が切り裂かれた瞬間、再び一休和尚は静寂を取り戻します・・・。
これが一休和尚の悟りです。静寂は静寂でも、鴉の声が聞こえる前とは全く異なる静寂が訪れたのです。
そうして作った投機の偈(悟りの詩)が次のものです。
凡とか聖とかの分別心や、
怒りや傲慢のおこる以前のところを
即今気がついた。
これは、分別心や、怒りや傲慢という「心の励起がおこる以前の基底状態(=真空)に気がついた」と解釈することができます。
上図で説明すると、あくまでも例えばですが、もともと一休和尚の意識(のエネルギー準位)が原子内のL殻にいたとします。
そして、鴉の声というエネルギーを得て励起(興奮)状態となりM殻に遷移しました。しかし次の瞬間、というよりほぼ同時に、それ以上のエネルギーを放出し、K殻(基底状態)に遷移することで、これが悟りの体験として現れたと考えることができるわけです。
ですが、もし一休和尚が励起した心に囚われたとしたら、その時はエネルギーを放出できないので、基底状態へ遷移することはなかったでしょう。囚われない心が育っていたからこそ、エネルギーを瞬時に、無意識的ではありますが放出できたのでしょう。
ですから、同じように鴉の声を聞いたとしても、悟れるかどうかは「囚われない心」にあるかと思います。
なお基底状態を悟ったかどうかの基準は、前回も書きましたが、「基底状態の自己」と「励起状態の自己」を一目に見る『目』が生まれているかどうかにあります。言い換えると、思考場と思考(真空とゆらぎ)の差異を見極める『目』です。
ゆえに、たとえ空の体験をしたとしても、思考や感情が励起したとたん、その空が消えてしまったとすれば、それは基底状態ではないのですね。