電子に見る人間の死とは

前回は、原子核の周りを回る電子には、最もエネルギーの低い基底状態と、それよりもエネルギーの高い励起状態がある。そして、外部から光を吸収すると基底状態の電子は外殻の励起状態へと遷移し、また励起状態となった電子は、安定を取り戻すために光を放出して基底状態へと遷移するという話をしました。

また、外部から光を吸収したときに、原子内ではなく、原子外に飛び出して陽イオンと自由電子に分かれることを「電離」といい、電離状態になった自由電子が光を放出して、再び陽イオンと結びついて原子を形成することを「再結合」といいました。

なお、電子の電離および再結合する過程(状態の移り変わり)も「遷移」と言います。

基礎的な知識は以上となります。それでは実際に、真の自己が原子内の電子と考える理由を見ていきたいと思います。

 

まず、真の自己を見出す前の、いわば今の私たちの多くが自分と認識している(信じている)自己は、原子外の自由電子であり、またその自由電子は原子内にいた時の記憶はないと仮定します。

すると、自由電子である自己(貴方)は、原子たちに構うことなく自由気ままに飛び回っていることでしょう。場合によっては、我が物顔で飛び回っているかも知れません。

しかし、そのように自由気ままに飛び回るためのエネルギーはどこから得たのでしょうか?

そうです。本人の記憶はありませんが、外部から得たエネルギーです。ゆえに、いつか必ず枯渇します。言い換えると、外部から与えられたエネルギーには限りがあるのです。

これは、今の私たちそのものを表しています。私たち人間が、外部から生命力(光)を与えられるとこの世に誕生し、生命力が残り少なくなると、光を放出して死を迎えるようなものです。

但し、人間の寿命が100歳だとすれば、電子の寿命はほぼ無限と言われています。人間には死がありますが、電子には死がほぼないのです。この違いはどこにあるのでしょうか?

 

電子は、常に安定しようとする性質を持っています。そして一番の安定は、陽イオンと結合して原子を形成することです。つまり、私たち人間の死は、電子にとっての再結合といえるのです。だからこそ、電子の寿命はほぼ無限なのかも知れません。

しかし、私たち人間は、原子内にいた時の記憶がなく、また外部から与えられたエネルギーを自分だと信じ執着しているので、なかなか手放すことができません。エネルギーを手放してしまえば、それは死を意味するも同然なので恐怖もあるでしょう。

それでも、そのような執着や恐怖に打ち勝ち、原子に向かおうとする人たちもいます。明確な記憶はないかも知れませんが、電子が安定を求めて原子に向かうように、その人の直感が自らを原子に向かわせるのです。

ただ、ここで面白いのは、電子にとっての安定が、私たち人間にとっては不安定だということです。電子が原子に向かうのは川上から川下に流れるようなものだとすれば、私たちが原子に向かうのは川下から川上に遡るようなものなのです。原子内での記憶を失った私たちにとって、命ともいえるエネルギーを手放さなければならないからです。

 

なんだかずいぶんと抽象的な話になってしまい恐縮ですが、電子にとっての本能と、私たち人間にとっての本能は、その向きが逆と考えると分かりやすいかも知れません。

私たちにとっての安定は、自由電子として原子に束縛されず自由に動き回ることだとすれば、電子にとっての安定は、原子に束縛されることなのです。

ちなみに、この「束縛」という言葉は科学でも使うもので、原子外の電子を自由電子と呼ぶのに対し、原子内の電子を束縛電子などと呼びます。そしてこの束縛こそが、電子にとっても私たちにとっても本当の意味で自由であり、いわば自由と束縛の反転といえるかも知れません。

次回は、生きながら死の世界に足を踏み入れるべく、電子の再結合について見ていきます。

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