能動的思考は、感情や肉体的欲求を凌駕した思考を言います。いわゆる「思考>感情>肉体(的欲求)」という構図です。感情や肉体的欲求に影響を受けず、むしろ影響を与えることのできる思考です。
そして、能動的思考を獲得することを、唯識では『転識得智(てんじきとくち)』と言います。「識が転じて智を得る」という意味で、感情や肉体的欲求の支配下にあった思考が転じて能動的思考を得ると言うことです。
それでは、転識得智の後に現れる世界について見ていきたいと思います。
先ず、転識得智の前は、私とあなた、あるいは私とモノは、全く別物の存在として認識されるかと思いますが、転識得智の後は、私とあなた、あるいは私とモノは、ある関係性を持った存在として認識されるようになります。
もちろん、転識得智の前も、私のモノ、あるいはあなたのモノというふうに、モノや人の前に「〇〇の」と付けることで関係性を持たせることができますが、ここで言う「〇〇の」は、どこまでも受動的思考が作り出した虚像の関係に過ぎません。つまり、いつかは消えてなくなる儚い関係なのです。
一方、転識得智の後に見出す関係性は、全ては一対一になります。
例えば、自分を含め10人のグループがあるとすると、通常は、自分は10人の内の一人に過ぎないという認識になるかと思いますが、転識得智の後は、自分とその他9人が全て一対一の関係として認識されるようになります。
Aさん、Bさん、Cさんがいたとして、”私とAさんとBさんとCさん”という水平的な繋がりではなく、”私とAさん”、”私とBさん”、”私とCさん”という垂直的な一対一の関係性を見抜くのです。
そして、この垂直的な関係性を見抜く智を「平等性智」と言います。
なぜ平等なのかと言うと、転識得智の前は、AさんとBさんとCさん、さらには自分も加えて、それぞれを横に並べて比較していましたが、転識得智の後は、横に並べることなく、全て平等に一対一の関係として捉えるようになるからです。
「一期一会」とも言いますが、全てのモノ、全ての人、全ての場所、全ての機会に、常に一対一のつもりで対すれば、いつもとは違った何かが見えてくるかも知れません。
次に、一対一の関係性が見えてくると、いずれ自分と対象のまた別の関係性が見えてきます。この関係性を見抜く智を「大円鏡智」と言います。平等性智が、自分と対象という点と点をつなぐ線を見出す智だとすれば、大円鏡智は、自分を中心とした大きな円を見出す智になります。
イメージとしては丸十字で、円の中心に自分がいて、円周に対象が連なった関係性です。もちろん、この時の円の中心である自分と円周上の対象は、水平ではなく、垂直的な関係です。
そして、この円が作る空間は、通常私たちが物理的に考える時間と空間とは異なります。
例えば、私たちは前を見ると、後ろを見ることができません。後ろを見るためには、首や体を回転させなければなりませんが、後ろを見ると、今度は前を見ることができません。つまり、首や体を回転させる時間と空間が必要になるので、ここでいう丸十字の空間とは異なるのです。
一方、前後を同時に、さらに左右まで四方を同時に見ることができるようになれば、丸十字の空間が意識上に現れます。すると、全ての対象が物理的にはバラバラに離れていても、意識上では、つまり大円鏡智においては、物理的な時間と空間を超えた一つの円として認識されるようになるのです。
なお、大円鏡智には、鏡と言う文字が使われていますが、鏡を見ると自分の顔が映ります。この時に自分と鏡に映る自分は一対一の関係ですね。つまり一対一の関係性を360度同時に認識しているのが、大円鏡智と言えるかも知れません。
元記事:能動的思考と唯識の転識得智