ここ数回の連載で、「電子とニュートリノの関係」と「自己と他者の関係」の相似性が少しずつ見え始めてきたのではないでしょうか?
簡単にまとめると、電子とニュートリノの間で<Wボソン>を交換することで、電子がニュートリノに、ニュートリノが電子に崩壊するように、自己と他者の間で<イメージ>を交換することで、自己が他者化したり、他者が自己化するということでした。
ところで、<Wボソン>が運ぶ力を「弱い力」と言い、この弱い力はごく近距離でしか働かないと言います。
では、意識空間ではどうかと言うと、やはり近距離でしか働かないと思います。ただ物理的な近距離だけでなく、たとえ物理的に離れていても、精神的に近距離であれば働くだろうと思います。
たとえば、目の前にすごく怖そうな人が現れたとします。この時重要なのは、実際にその人が怖いかどうかよりも、「怖そう」という<イメージ>が、相手から送られてきたかどうかです。
そして、もし相手から「怖そう」という<イメージ>を受け取ったとすれば、自己はその<イメージ>に心が占領されて他者化します。その怖そうな人の目を気にして萎縮してしまうのです。
すると、相手そのものを見ることができなくなります。もしかしたら、本当はやさしい人かも知れないのに、「怖そう」という<イメージ>を投影して他者が自己化します。相手を知る訳でもないのに、見た目で悪人というレッテルを貼るようなものですね。
このように物理的に近い距離で「弱い力」は働くわけですが、もし怖そうな人が視界から消えるほど遠くに離れれば、その<イメージ>も消えると思います。つまり、遠距離になると「弱い力」は働かなくなるのですね。
しかし、たとえ物理的に遠くに離れても、精神的に近距離の存在であれば「弱い力」は働くだろうと思います。
たとえば、先の怖そうな人から恫喝されたとします。本当に怖い人だったのですね(汗)。すると、視界から消えるほど遠くに離れても、その人を思い出すたびに、つまり<イメージ>を交換するたびに、恐怖が蘇り、自己が他者化するのです。
そのような意味で、精神的に近距離の存在であれば、どんなに物理的に離れていても、一瞬で思い起こすことができるため、その相手とはいつでも「弱い力」が働きうると言えますね。
ところで、人は1日に6万回ほど思考すると言いますが、その大部分が受動的思考です。自分で意図せず沸き起こる思考ですね。
この受動的思考は、過去の記憶からやってくるものが大部分ですが、その場合、<イメージ>とぼぼ同じものであると言えます。
恫喝された過去の<イメージ(記憶)>が、たとえ思い出したくなくても「弱い力」の働きによって、今の自分に運ばれてくるのです。
そして過去の<イメージ>が運ばれてきた時に、同時に大きな恐怖を感じたとしたら、それは電子の励起状態に該当します。つまり、<イメージ>と励起は別物といえます。
他者から運ばれてきた<イメージ>を契機に「励起(恐怖)状態」になったのは間違いないでしょうが、素粒子構造から見ると、イメージは「Wボソン」、励起状態の原因は「光子」というように、両者の間には明確な差異があると考えられるのです。