前回は、ヌーソロジーにおけるψ6の「位置の中和」の顕在化について見ました。
「位置の中和」の顕在化とは、通常、私たちの意識下で行われている《自己の他者化》と《他者の自己化》の差異を意識上で自覚することでした。
言い換えると、《他者化した自己》と《自己化した他者》を同時に観る『目』が生まれた状態とも言うことができます。
ところで、このブログでは、同時に観る目、あるいは差異を認識する目などと表現しますが、この『目』は、ヌーソロジーの概念で言う「次元観察子」に該当するかと思います。
「位置の中和」の顕在化で言うと、《他者化した自己》と《自己化した他者》を同時に見る目は、Ψ7の「位置の変換」に該当すると思います。そして、Ψ7を客観的に見る目が生まれたとしたら、それが即ち「位置の変換」の顕在化になるのでしょうね。
本題に戻りますと、「位置の中和」が顕在化すると、《自己の他者化》および《他者の自己化》を主導する<イメージ>を制御できるようになります。
たとえば、夜家に帰った時にふと、昼間上司に怒られた場面を思い出したとします。思い出したくないのに、怒った上司の顔が脳裏から離れません。
この時の貴方は、完全に上司の<イメージ>に占領されています。《自己が他者化》しているのです。怒った上司という<イメージ>の中に、自分の意識が飲み込まれた状態とも言えます。
また、人によっては、その<イメージ>を再び上司に投げ返すこともあるでしょう。いわゆる心理学で言う「投影」です。
怒られた理由はともかく、上司は私を憎んでいるから怒るんだと決めつけたり、実はそうではないのに恐い上司というレッテルを貼ったりするのです。上司本人の本質は別にして、自己の<イメージ>を上司に重ね合わせて見るようになる、つまり《他者が自己化》するのです。
この辺りの内容は、もしかしたら心理学を勉強すると、より細かく説明できるようになるかも知れませんが、それは今後の課題として、素粒子構造から見れば、とてもシンプルです。
電子とニュートリノが<Wボソン>を交換することで、電子がニュートリノに、ニュートリノが電子に崩壊するように、私たち人間も、意識空間で<イメージ>を交換することで、自己が他者化したり、他者が自己化したりするわけですね。
しかしながら、「位置の中和」が顕在化すると、《他者化した自己》と《自己化した他者》の差異が明確になるため、<イメージ>に意識が飲み込まれなくなります。
先の例で言うと、上司に怒られた場面が思い起こされても、その<イメージ>に飲み込まれるのではなく、飲み込むことができるのです。
<イメージ>に飲み込まれたときは、思い出したくもないのに、しきりに上司の怒った顔が脳裏に浮かびますが、<イメージ>を飲み込むと、怒った上司の顔が脳裏に浮かぶことはありません。たとえ脳裏に浮かんでも、すぐさまその<イメージ>を飲み込んでしまえば良いのです。
そして、重要なことは、<イメージ>をしっかり飲み込むと、その<イメージ>を飲み込んだ他者の目を獲得できるようになるという点です。即ち《他者の自己化》です。
但し、ここでいう《他者の自己化》は、<イメージ>を無意識的に投影していた時のものとは全く違います。
これは「潜在化」と「顕在化」の違いですが、顕在化における《他者の自己化》の一番の特徴は、他者の目を通じて自己を観られるようになるというものです。
つまり、《自己化した他者》を通じて《他者化した自己》を観られるようになるのです。
ところで、<イメージ>を制御する力を「弱い力(弱い相互作用)」と言いました。
「電子とニュートリノの関係」と「自己と他者の関係」が等価であると考えると、素粒子空間における<Wボソン>が弱い力によって働くように、意識空間で<イメージ>を交換する力も弱い力と言えるからですね。
そして、これまで見てきた通り、弱い力の本質的な意味の一つが、「他者の目の獲得」です。
この他者の目の獲得は、潜在化においては、ヌーソロジーで言う「幅」を生み出し、顕在化においては、自他の「差異」を生み出す役割を担っていると言えるかと思います。
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