道の道とすべきは常の道にあらず

はじめまして。
GOLDEN KIDです。

これから新しいブログを始めたいと思いますが、ひとまず既存ブログ(⇒六角時代)の過去記事を編集しなおしたものをアップロードしていきたいと思います。

まずは、老子道徳経の話です。

道の道とすべきは常の道にあらず

皆さんも「太極」というのは、どこかで聞かれたことがあるかと思います。このような図で表されるものです。

中国哲学では、太極の働きをそれぞれ「陰陽」と言い、この陰陽の働きによって万物が生成すると言います。

そして、太極それ以前の状態を「無極」と言います。

無極とは、即ち、何もない空っぽな状態です。昔老子は、この無極の神妙な働きを「道」と名付けました。

道の道とすべきは、
常の道に非ず。

名の名とすべきは、
常の名に非ず。

ひとまず「道」と名付けたけれども、私たちの頭で考える道は、決して本当の道ではなく、何かに名を付けたとしても、人によって解釈は千差万別なので、その考えを信じてはならない、という意味です。

この句は、老子道徳経の冒頭に来る内容で、これから道徳経を読み解くための注意事項のようなものであると同時に、私たちが生きて行く上での戒めでもあります。

名無きは天地のはじめ、
名有るは万物の母。

「名無き」は無極、「名有る」は天地、即ち太極を指します。つまり、無極を通じて天地が生まれ、天地(太極)の働きによって、万物が創造されるという意味です。

故に常に無欲にして以て其の妙(みょう)を観、
常に有欲にして以て其の徼(きょう)を観る。

「無欲にして」とは、無極の状態を指し、「妙(みょう)」は、天地創造の働き、即ち太極の作用を言います。そして「徼(きょう)」とは、私たちの目に見える現象世界を言います。

つまり、目に見える現象世界である<徼>に囚われていたら(=有欲)、いつまで経ってもその現象世界が作られた太極の作用である<妙>を観ることはできないが、

現象世界への囚われから離れる(=無欲)ことで、天地創造の働きを観ることができ、かつ太極の作用を使えるようになる、ということです。

この太極の作用は、即ち宇宙根本エネルギーと言うことができ、根本エネルギーを通じて人生を自由に創造する力を『サイパワー』と言います。

即ちサイパワーとは、無極を通じて太極の作用を自ら使う力と言えますね。

此の両者は同じきに出でて
而も名を異にす。

天地創造の働きである「妙」も、天地創造の働きによって作られた「徼=現象世界」も、共に無極から生まれたものである。

とても大事な句ですね。

仏教においては、この徼の世界を色と言い、これを否定するきらいがあるような気もしますが、老子はあえて同じ無極から生まれたものであると言います。

同じきこれを玄と謂い、
玄のまた玄は衆妙の門なり。

「玄」とは、無極の状態であり、「衆妙」は、妙がたくさんという意味です。即ち、無極の状態に至った人は、天地創造の働きを通じて、願うことを全て成し得る、という意味に解釈できます。

そして、「衆妙の門」とは、まさに私たちの魂を指していると言えます。

自意識と魂

私たちの多くは、有欲にして、目に見える現象世界に囚われて生きています。

このように現象世界に囚われている心を「自意識」と言います。一方、空間と時間に影響を受けず、自由に動き回る心を「魂」と言います。

勿論、自意識を主として生きる人の魂は、決して自由とは言えませんが、自意識の影響から離れることで、私たちの魂は空間と時間に関係なく、自在に動けるようになります。

そして、自意識にしても魂にしても、その本拠地は共に無極であり、根本エネルギーと同じ、魂の作用を体得することで、私たちは人生を創造的に楽しく生きられるようになります。

なぜなら、全ては無極から生まれたものであり、私たちの心もまた、無極を母体にしているからです。

■元記事:老子道徳経に見る「無極と太極」

サイポロジー的解釈

老子の話す世界観は、サイポロジー的解釈では、電子の基底状態と励起状態に当てはめることができると思います。電子の基底状態が「無極」だとすれば、そこから励起し活動していく様が「太極」の働きになります。

サイポロジーの詳細は、追々説明していきたいと思います。

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