思考場と思考の差異の認識

現代科学における「真空」は、何もない空っぽな空間ではなく、粒子が生成と消滅を繰り返している、つまり常にゆらいだ状態のことでした。このゆらぎを量子ゆらぎ、あるいは真空のゆらぎといいます。

では、量子ゆらぎを意識の側面から解釈するとどうなるのでしょうか?

 

私たちの意識を深く探っていくと、いずれ真空にたどり着きます。これは「意識場の真空」と呼ぶことができ、この意識場の真空を認識することを昔の人は悟り、あるいは解脱などと表現しました。

さて、真空では粒子が生成と消滅を繰り返しているわけですが、「粒子」を「思考」と置き換えると、意識場の真空では、思考が生成と消滅を繰り返していると考えることができます。

実際、自分の意識場に意識を向けてみて下さい。

ここでは分かりやすく、意識場を思考場に言い換えると、思考場に意識を向ける、即ち思考が浮かび上がる場(刹那)に意識を向けるのです。

すると、様々な思考が現れては消えて行くのを観ることができると思います。このように思考が現れては消えて行く状態を、思考場における真空のゆらぎ(思考場のゆらぎ)と解釈できるかと思います。

 

ただ、これだけでは分かりづらいと思うので、もう少し詳しく説明すると、先ほど思考場に意識を向けると、思考が現れては消えて行くのを観ることができると書きましたが、実際には、思考に囚われて、思考が現れるのは観ることができても、消えて行くのは観ることができない人が大部分かと思います。

思考場に意識を向けるとは、即ち思考を客観視するという意味ですが、もし思考に囚われると、思考の中に意識が埋没して客観視できなくなるからです。つまり、思考が現れては消えて行くのを観ることができなくなるのですね。

このように多くの人が、思考を客観視できない理由は、思考場と思考の差異が明確でないからです。思考場と思考の差異が明確でないからこそ、思考に囚われるともいえます。

ですから先に、意識場の真空を認識することを、昔の人は悟りや解脱などと表現したと書きましたが、より正確に言えば、悟りや解脱とは、思考場と思考の差異を明確に認識することに他なりません。

例えば、瞑想をして心が鎮まったとします。この鎮まった心の状態は、ある意味真空と言えるかも知れません。しかし、思考や感情が湧き上がった時にその真空が消えてしまったとしたら、それは悟りでも解脱でもありません。

たとえ、思考や感情が湧き上がっても真空が残っているとすれば、言い換えると、思考や感情に全く影響を受けない場が共存しているとすれば、その時はじめて思考場と思考の差異が明確となり、これが悟りや解脱と呼ばれるものなのです。

多くの人は、現れては消えて行く思考を「自己」と認識していますが、「真の自己」は、現れては消えて行く思考ではなく、その思考を生み出す母胎ともいえる真空だと認識することが、悟りや解脱ということですね。

もちろん、これまで何度も書いてきた通り、今の私たちは、この悟りや解脱で満足してはいけません。なぜならここが最終目的地ではないからです。

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