マナ識とアーラヤ識(2)

前回からの続きです。

マナ識とは

前回は特に、マナ識の働きに注目しました。

マナ識とは、一言で言いますと「我執(がしゅう)」のことで、我執を辞書で調べて見ますと、

仏教用語。自身の存在のなかに実体的ながあると考え着すること。あらゆる存在に本質として実体的なものがあると執着する法執 (ほっしゅう) とともに仏教では排斥される。我見,我想,人我想ともいわれる。一般には自分の意見に固執すること。

とあります。

上記引用を繰り返し読んでみてもらいたいのですが、これは前回の記事の例えで言いますと、

私たちが目の前で車の事故を目撃すると、その時の映像や音、あるいは匂いなどが、恐怖と言う<意(思い)>と共に無意識に貯蔵されます。

唯識の言葉で言うと、眼識(映像)、耳識(音)、鼻識(匂い)、そしてその時の意識(恐怖)がセットになって、アーラヤ識に貯蔵されるのです。

なお、アーラヤ識のアーラヤalayaは、サンスクリット語で「蔵」という意味で、あらゆる記憶を<種子(しゅうじ)>として貯蔵していると言います。

つまり、事故の記憶を<種子>として、アーラヤ識の中に持ち続け、事故を目撃した後も、事ある毎に、その記憶が恐怖と共に意識上に浮かび上がるのです。

場合によっては、夢の中まで出てくるかも知れませんね。

 

では、なぜこのような現象が起こるかと言いますと、それはアーラヤ識が、というより種子が、外に飛び出していく気運を持っているからです。つまり、アーラヤ識に蓄えられた種子が芽を出すために、今か今かと機会を伺っているのです。

その種子が向かう先の一つが意識です。

私たちが意図せずとも、繰り返し思考や感情が浮かび上がるのは、アーラヤ識に蓄えられた種子の影響なのですね。

そして、その浮かび上がった思考や感情をスルーしてしまえば、種子は行き場を失って<識以前の虚空>へと還って行くのですが、私たちは思考や感情をスルーできず、捕まえてしまうので、その渦の中に巻き込まれてしまうのです。

すると種子はさらに力を得て、いずれ飛び出す先が現実世界になります。いわゆる”機が熟して恐れていたことが現実になる”のです。

このように浮かび上がる思考や感情を捕まえて、種子に力を与えている存在が、まさにマナ識になります。

我執と転識得智

先に「我執」の意味を載せましたが、もう一度見てみると、我執とは、自身の存在の中に実体的な我があると考え執着すること。とあります。

この意味についてよく考えてみて欲しいのですが、アーラヤ識に蓄えられた種子とは、どこまでも過去の記憶です。つまり、現実にあるものではありません。

しかし、私たちはアーラヤ識に貯蔵された種子を”在るもの”と認識しているために悩み苦しんでいるのです。

ですから、この種子を”在るもの”と認識し執着するマナ識の影響から離れることが、悩みや苦しみから脱却する第一歩です。

そのためには、繰り返し浮かび上がる思考や感情に気づき、その影響から離れることが大事ですね。

 

そして、このマナ識の影響から脱却すること、あるいはその状態を「転識得智(てんじきとくち)」と言います。「識を転じて智を得る」という意味です。

仏教では、この転識得智を「悟り」とも呼ぶかと思いますが、サイパワーではある意味、この「識を転じて得た『智』」を通じて世の中を見て、願う通りに動かすことが最大のテーマであると言えるでしょう。

元記事:マナ識とアーラヤ識(2)苦しみの原因とそこからの脱却

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