今回は、老子道徳経の一節を通じて、「肉体の目から魂の目へのシフト」をテーマにお届けします。
老子道徳経の冒頭
老子道徳経は、次のような文で始まります。
道の道とすべきは常の道に非ず。
名の名とすべきは常の名に非ず。
名無きは天地のはじめ、
名有るは万物の母。
故に常に無欲にして以て其の妙を観、
常に有欲にして以て其の徼を観る。
此の両者は、
同じきに出でて而も名を異にす。
同じきこれを玄と謂い、
玄の又た玄は衆妙の門なり。
なんと表現したらよいか悩みますが、とても美しい文章ですね。
うわべだけを着飾ったものではなく、奥の奥に潜む、さらに奥に進んだ世界と、私たちの目の前に現れた現象世界の関係、また、私たち人間の大いなる可能性についても、この短い文で見事に表現しています。
老子の言う無欲と有欲の世界観
そんな中で、
故に常に無欲にして以て其の妙を観、
常に有欲にして以て其の徼を観る。
について、見ていきたいと思います。
まず「故に」というのは、前の文章から引き継いだものですが、ここから見ますと、この文は、
無欲であることで<天地創造の働き>である『妙』を観ることができるが、有欲であると<目の前に現れた万物>である『徼』しか見ることができない。
と解釈することができます。
補足:『妙(みょう)』が天地創造のエネルギーだとすれば、『徼(きょう)』は天地創造のエネルギーによって作られた現象世界を言います。
もしかしたら、ここでピンと来られた方もいらっしゃるかも知れません。
そうです。
ここで言う、無欲を通じて『妙』を観ることのできる目を<魂の目>と言います。一方、有欲を通じて『徼』の世界しか見ることのできない目を<肉体の目>と言います。
分かりやすく説明しますと、例えば私たち人間を作った神様がいるとします。神様は、人間が生まれてから死ぬまでをずっと見守っています。でも、私たち人間は、いつか必ず死を迎えます。
しかし、いつか必ず死ぬのと同じように、別の場所でまた別の命が誕生します。
神様は、こうした「生と死とその間」を全てを見守っている存在であり、この神の視点が<魂の目>です。
一方、私たち人間の立場から見ると、神様のように全体の視点に立つことができず、「生・死・その間」という部分しか見ることができません。
もちろん、生と死の間には、人それぞれ様々な物語があるでしょうが、それも死んでしまえばおしまいです。
前世が、あるとかないとかいう話もありますが、そういうことではなく、私たち人間はどこまでも「部分」しか見ることができないということです。このように部分しか見ることのできない人間的な視点が<肉体の目>です。
肉体の目から魂の目へのシフト
そして、今回のテーマである肉体の目から魂の目へのシフトとは、人間の視点から神様の視点へのシフト、即ち、部分を見る目から全体を観る目へのシフトを意味しています。
老子流にいうのであれば、有欲から無欲へのシフトと言えるかも知れませんね。
ただし、老子の言う「無欲」とは、欲が無いことではなく、欲に対する執着が無いということです。