前回は、老子道徳経を通じて、全体を観ることのできる目を<魂の目>、部分しか見ることのできない目を<肉体の目>と言う。
そして、私たちの多くは、部分しか見ることのできない肉体の目に偏っているため、全体を観ることのできる魂の目にシフトする必要がある。
また、老子流に言えば、
故に常に無欲にして以て其の妙を観、
常に有欲にして以て其の徼を観る。
というように、常に有欲であれば、表に現れた現象世界しか見ることはできないが、常に無欲であることで、現象世界を創り出す天地創造のはたらき(天地のはじめ)を観ることができる。
よって、有欲から無欲にシフトしなければならない、という話をしました。
肉体の目と魂の目
肉体の目と魂の目の違いは、分かりやすく言うと、見える世界だけを見る目が肉体の目、見えない世界を観る目が魂の目です。
量子力学によると、観測できる世界は全体の5%ほどに過ぎないそうですが、残りの95%は私たちが見ることも、観測することもできない世界です。
つまり、この5%から脱却して、全体の世界を観ようというのが、肉体の目から魂の目へのシフトです。
ただ、見えない世界を見よう!というと、何か特別な超常現象のようなものを連想される方もいるかも知れませんが、ここでいう見えない世界とは、決してそういうものではありません。
もしかしたら、魂の目にシフトする過程で、何らかの現象が起こるかも知れませんが、もしその現象に囚われてしまえば、もうその人の目は肉体の目に戻ってしまっています。
なぜなら、対象や現象に囚われた瞬間、私たちの目は部分に固定されてしまうからです。
例として、普段落ち着いて歩いている時は、全体と自分の距離感を把握しながら、人とぶつからないように歩くことができますが、スマホや別の何かに気を取られれば、瞬間的に目が部分に囚われて、人や自転車とぶつかってしまうことがあるようにです。
性の執着から離れる
だから、老子は言いました。「常に無欲でないと、其の妙を観ることはできない」と。ここで言う無欲は、欲が無いことではなく、欲に対する囚われが無いことを言います。
例えば、私たち人間が生きて行く上で、本能的な欲求として食欲や性欲、睡眠欲などがあります。
特に、性欲に関して言いますと、この欲求は私たち人間が生きるために絶対的に必要なものです。
もちろん、個人的に見れば必要ない場合もあるかも知れませんが、全体を見たときに、もし性欲がなくなれば、私たち人間は滅亡してしまいます。
しかしながら、<性欲>と<性への執着>は異なります。これは、食欲や睡眠欲にも当てはまりますが、『サイパワー(Psy-Power)』の教えに、「性の執着から離れる」と言うものがあります。
これは性欲をなくせ、という意味ではなく、性欲を持ったまま、その執着から離れなさいというものです。
また、「疾病の恐怖から離れる」というのもあり、これは<疾病>と<恐怖>は別物なので、たとえ病になったとしても、その恐怖から離れなさいということです。恐怖は、さらなる恐怖を生み出すからですね。
そうして、肉体の目から魂の目にシフトしながら、魂の目の視野が広がってくると、<欲>と<執着>が別物であることも、<病>と<恐怖>が別物であることも明瞭となり、そこから離れることができるようになります。
この過程を「修養」と言います。
無欲を通じて全てを為す「無為自然」
老子の話に戻りますと、老子はこれを「無欲」と表現しました。
性欲や疾病、感情の起伏や自己愛着は、人間であれば大小の差はあれ誰しもあります。ただ、そこに囚われず、悠々と無欲の姿勢で過ごしなさい、ということですね。
そして、老子は、「無欲であることで妙な天地創造のはたらきを観ることができる」と言うのですが、さらに言うと、無欲であることで妙な天地創造のはたらきを使うことができる、ようにもなります。
このように老子の言う『妙』な天地創造のはたらきを駆使する力を『サイパワー』と言います。
もちろん、サイパワーを通じて妙な力を使ったとしても、その力や対価に執着してしまえば、その瞬間、肉体の目に戻ってしまいます。だから、無欲が必要なのですね。
このように無欲によって全てを為すことを、老子は「無為自然」と言いました。
無為自然とは、言葉だけを聞くと、山に籠って何もせずぼーっと暮らすことのようですが、決してそうではなく、全ての執着から離れながら、全ての願いを自然のまま為すことを言うのですね。