マナ識とアーラヤ識(1)

唯識の世界観について見ていきたいと思います。

唯識とは

大乗仏教の見解の一つに「唯識」というものがあります。

Wikipediaによりますと、

唯識(ゆいしき、skt:विज्ञप्तिमात्रता Vijñapti-mātratā)とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つである(瑜伽行唯識学派)。ここで、八種類の識とは、五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。

引用:唯識 – Wikipedia

ここでいう「2層の無意識」を、それぞれマナ識アーラヤ識と言います。

つまり、唯識とは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識と意識を加えた六識(意識できる心)と、マナ識とアーラヤ識の二識(意識できない心)の合計八種類の識(八識)によって、あらゆる諸存在が成り立っていると考えます。

サイパワーの側面から見ると、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識が「自意識」、アーラヤ識が「魂」となるのですが、問題は<マナ識>です。

<マナ識>は、一言で「我執」です。我に執着する心ですね。そして、唯識においてマナ識は、無意識に分類されるので、私たちは通常マナ識を意識できません。

ただ、結論から言いますと、無意識に繰り返されるマナ識の作用を意識上で捉え、そこから脱却することが、私たちがよりよく生きるために大事になります。

マナ識の働き

マナ識の働きについて、分かりやすく「意識」と「無意識」、そして「現実」の三つに分けて考えていきたいと思います。

まず私たちは、現実で起きたことを、”五感および意識”を通じて感知し、それを無意識に貯蔵します。

ここで”五感および意識”とは、例えば目で見た情報に加えて、その時の思いや感情という<意>も含まれるということです。

唯識でいうと、そうした全ての情報がアーラヤ識に蓄えられるのですね。流れとしては、「現実⇒意識⇒無意識」の順です。

さらに、無意識であるアーラヤ識が現実を作っているので、「無意識⇒現実⇒意識⇒無意識⇒・・・」というように、ぐるぐると永遠に回っているのが世の理とも言えるかも知れません。

 

「意識」と「無意識」の二つの関係に注目すると、「無意識⇒意識」の流れもあります。

私たちは、1日に6万回ほど思考するといいますが、この思考の大部分が「無意識⇒意識」に沸き上がったものです。

この時沸き上がるのは、思考だけでなく感情も含まれますが、自分の意に反して思考が沸き上がるのは、このように無意識に蓄えられた種を因としています。

そして、ここからが大事なのですが、このように繰り返し沸き上がる思考を、唯々目前を過ぎ去る車のように、見送ることができれば良いのですが、私たちは皆<マナ識>を持っているため、そうした思考や感情に囚われて巻き込まれてしまうのです。

たとえば、目前で交通事故を見て、<私も事故に遭ったらどうしよう>という思いが沸くと、無意識にその映像と思いが蓄えられます。そしてその後、何かの拍子にその映像と思いが「無意識⇒意識」に沸き上がります。

しかし、その都度、そこに囚われることなく客観的に見送ることができれば、いずれその思いも消えて無くなるのですが、多くの人は、その思いを掴んで放さないので、自ら<事故に遭ったらどうしよう>という現実を作ってしまうのです。

これがマナ識の働きです。つまり、マナ識こそが、私たちの願わない現実を作っている主犯と言えるのですね。

元記事:末那識と阿頼耶識(1)

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