【転識得智】悟りとは現実である

唯識における一つの目標が、『真実性(円成実性)』を体得することです。これが仏教で「悟り」と呼ばれるもので、別の表現をすると、<私>と<現実>は一つであると悟ることを言います。

素空慈先生は常々「悟りとは現実である」とおっしゃっているのですが、まさにこのことを言っています。

そして、唯識では悟りに至るまでの段階(状態)を大きく三つに分類し、それを『三性説(さんしょうせつ)』と呼んでいます。

先ず、全ての現象が別々に存在し、「点」としてしか認識できない状態を『分別性(遍計所執性)』、 次に、その点と点が実は一つの「線」として繋がり、関連性があると見出した状態を『依他性(依他起性)』、最後に、その線も全てが繋がった一つの「円」であると悟ることを『真実性(円成実性)』と言います。

私たちの多くは点と点でぶつかり合い、お互い争っていますが、その点も実は線で繋がっており、さらにその線も一つの円で繋がっていると悟ることが唯識の”一つの目標”なのです。

 

なお、”一つの目標”と表現した理由は、唯識では『真実性』を体得した後に現れる「智」についても話しているからです。それを『転識得智(てんじきとくち)』と言います。

これは「識が転じて智を得る」という意味で、唯識では識(心)を八識に分類し、それぞれの識が転じて新たな智を得ると言います。

アーラヤ識は『大円鏡智(だいえんきょうち)』、マナ識は『平等性智(びょうどうしょうち)』、第六意識は『妙観察智(みょうかんさっち)』、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の前五識は『成所作智(じょうしょさち)』に転じると言います。

それぞれ説明していくと、先ず『大円鏡智』とは、世の中は一つの大きな円で、かつ<私>と<現実>は鏡の関係であると深く悟る智のことを言います。

三性説で言う『真実性』と同じ意味と言えますが、<私>と<現実>が鏡の関係と言うのは、私が笑顔になれば、鏡の私も笑顔になるように、<私>の意志によって<現実>を自由に創造する智とも言えるかと思います。

実際、唯識では、アーラヤ識に貯蔵された種子によって全ての現象が作られると言いますが、『大円鏡智』を得ることで、自在に種子を植え、願う現実を創造できるようになると言えるでしょう。

次の『平等性智』は、<私>と<対象>の間の壁がなくなった『感謝状態』を言います。茶道で言う「一期一会」もこれに似ていますね。しかし、世間でよく言われる「平等」は、おおむね横のつながりを言うので全く違います。

例えば、最近は分かりませんが、以前のゆとり教育で、運動会でも順位を付けず、皆で一緒にゴールするなんて話もありましたが、これは決して『平等性智』ではありません。『平等性智』は、かけっこの早い子と遅い子をそれぞれ横に並べて「平等」に見るのではなく、全て「一対一」の関係で相手に接することを言います。

横に並べて比較しながら接するのではなく、誰に対しても、常に「一対一」の関係によってその個性を認めることであり、あえて言えば横ではなく「縦のつながり」と言えます。これはヌーソロジーで言う「奥行き」の世界認識と言っても良いかと思います。

ただ『平等性智』を体得し、私と他者、あるいは他者と他者を横に並べて比較する心がなくなったとしても、世の中には様々な「ライン」があります。

例えば、<私>の味方になってくれる人と敵となって<私>に害を与える人の間には、明確な「ライン」があります。このような世の中に存在する様々な「ライン」を、感情的ではなく、知的に見極める目を獲得することが、次の『妙観察智』です。いわゆる「現実を正しく知る智」、あるいは「現実を正しく見る眼」のことです。

そして最後の『成所作智』は、人が見ないものを見て、人が言えないことを言って、人が聞けないことを聞いて、人ができないことをやる、というものです。

 

以上、四つの『転識得智』を見てきましたが、サイパワーで話す”自意識の影響から離れる”が、『三性説』の世界観だとすれば、”魂を主として生きる”が、『転識得智』の世界観と言えます。

だからこそ大事なことは、たとえ悟っていなかったとしても、『転識得智』の世界観をはっきりと知り、日々の生活に役立てることであり、またたとえ悟ったとしても、決して『真実性』に留まってはならないということです。なぜなら『転識得智』と『三性説』は、切っても切れない表裏一体の関係だからです。

元記事:【唯識のすすめ】悟りとは現実である

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